あるシャーマンのつぶやき。

体感型&非体験型のシークレットサロン/現在おやすみ中

どこを切り取る?

「最初からなにもなかったんだ」

その言葉を必要しているひともいるし、


それで癒されないひともいる。



それなりの旅をしてきて、

その困難さもある程度分かってきた。



自分にとって必要なことは

相手にとって必要ではない。



わたしも困難だったあの頃は、

キラキラしたspiritualはなんの癒しにもならなかった。


なんの救いにもならなかった。



読みづらいような

なんか難しいことが書かれてるようなものばかり買って、

「なんでこういうものばかり惹かれるのだろう」と思っていた。




いまは、spiritualは好きではない。


けれど、出来る。



もう当たり前にそれはそこにある。




あってもなくてもいいんだと思う。



あったらちょっと楽になるのにな、という

選択肢を小分けしてる感じかな。




spiritualやってます、っていうのはまだやっぱり躊躇する。



やってるんじゃなくて、、、

研究?

暮らしとの配合?

利用?


そのへんが

まだ、

言語化出来ない。




先日、身内のお見舞いに行ったとき、

帰りのバスを待ってるとき

見知らぬおばちゃんと出会った。


そのおばちゃんは

旦那さんが末期で残りの時間が少ないという告知を受けてきたのだという。


息子さんも同じ病気で亡くされたと。



いろいろ話された。



「誰かに話したかった。おねーちゃん(わたし)に話せて良かった。話してて心が決まった。」


バスが来るまで立ち話をしていた。



わたしは

こういう仕事をしてるということも告げてないし

話を聞くことしか出来なかった。


旦那さんの「ひとりにして済まない。ひとりにするつもりはなかったけれど、これからは自分のために生きてくれ。なにも出来なかったけれど自分はおまえのことを必要としていた。

必要としてたからそれを伝えることをしたかったがそれが出来ないのが悔しい」

など

そういう想いは伝えることは出来ず、

そこで別れた。



わかるっていうことはときに辛い。


それをそのまま伝えれるときはいいが

それを自分の中に留めておくということは

自分のなかに貯留してひとつまた重くなる。



それを背負っていかないといけない。




そういう想いをどこに届ければいいのだろう。


もっと、

わたしがなにを言わなくても

わたしがそういうことをやってるって知られたらいいのだろうか。



わざわざこっちから伝えることはしたくない。



普段は普通に生きていきたい。




最初からなにもなかったんだ、っていうことも

spiritualさえ知らないひとに言ってもちんぷんかんぷんになるだけだろう。



必要なひとに必要なときに必要なだけ届けばいいんだと思う。




ひとそれぞれ、必要なものは違う。



なにをしたいかによって違う。



ちゃんと、自分の道に進む?

目の前にいろんな道があるんだと思う。

どれを選ぶ?



自分はどう在って

どんなことしていく?


どう在りたい?




あらゆる方法でそのひとを救っていきたいのかな。



大丈夫だよ、って言っていきたいのかな。




大丈夫なひとにしか大丈夫だとは言わないけれど

大丈夫にしていくのもわたしの仕事なのかな。



無責任な"大丈夫"は言いたくない。



そのためには

どうしたいのか、

決めてもらいたいのかも。